
企業に勤める中で、誰しも一度は「このまま働き続けて良いのだろうか」「自分の努力は正しく評価されているのだろうか」と悩む瞬間があります。ときには退職届を机の上に置き、迷いながらも決断を迫られることもあるでしょう。今回は、ある会社で実際に交わされた社長と社員の対話をもとに、働くうえで大切な姿勢や学びを考えてみたいと思います。
ある日、社員の一人が社長のもとを訪れました。月末に契約書を持参する予定があったにもかかわらず、手にしていたのは「退職届」でした。営業活動に励んでいたものの、見込み客との契約には至らず、期待に応えられなかったことへの悔しさや不安がその行動に表れていました。
社長は驚きながらも率直に問いかけます。
「なぜ契約できなかったのか」
社員は「他の会計事務所と比較したいと言われ、最終的に決定してもらえなかった」と説明します。成果を持ち帰ることができなかった現実に落胆し、さらに退職届まで差し出してしまったのです。
「給与が上がったのはなぜか」という問い
この社員は、先日給与を上げてもらったばかりでした。その理由を社長に尋ねます。社長は笑みを交えながらも、こう答えます。
「10万円上がったわけではないだろう。1万5千円や2万円程度で『給料が上がった』と感謝されても、私はあまり嬉しくない。なぜなら、それは本来あなたが力をつけた結果として自然に上がるものだからだ」
給与は単なるご褒美ではなく、社員の努力や成果に応じて評価されるべきものです。感謝の言葉を強要するものではなく、社員自身の成長の証として受け取るべきだ――社長の考えが込められていました。
退職届を手にした社員は、改めて自分の気持ちを整理して伝えます。
「確かに退職したいと思う瞬間もありました。しかし、それは逃げであり、未来を良くすることにはつながらないと気づきました。私はこの会社に好きな部分があり、ここで働きたいのです」
社長は「どこが好きなのか」と問いかけます。社員はこう答えました。
「ここは成長できる会社だと思います。若い社員が多く、互いに切磋琢磨しながら頑張っている。叱咤激励を受けながら、自分自身を鍛えられる環境がある。中途で入社した私にとって、この刺激はとても大きいのです」
その言葉に社長は頷き、「ありがたい言葉だ」と応えます。会社の厳しさの中に成長を感じられるかどうかは、働く人の姿勢次第です。

社員の真剣な思いに対し、社長は自らの体験を語りました。
「私もかつて師と仰ぐ先生に拾っていただいた。だからこそ、その先生のために尽くそうと思ったんだ。尽くすとはどういうことか。誰よりも早く仕事をする、誰よりも多くの仕事を引き受ける、言われたことにはすぐ『はい』と応じる。その積み重ねが結果として会社の力になり、自分の成長にもつながる」
ここで社長が強調したのは「素直さ」です。高度なスキルや専門知識はもちろん重要ですが、まずは与えられた仕事に誠実に取り組み、素直に吸収する姿勢が人を成長させる。結果的にそれが信頼を生み、会社にとっても本人にとっても利益になるのです。
社員は社長の言葉に耳を傾け、自分の決意を新たにします。
「この退職届を出すのはやめます。今ここで投げ出すのは逃げであり、自分の成長にも会社の未来にもつながらない。私は営業に出て、成果を上げて戻ってきます」
社長は笑顔で送り出します。
「よし、いいことを言ったな。頑張ってこい。ただ、帰るときはちゃんと椅子をしまっていけ。そういう小さなところにこそ、人間としての姿勢が出るんだ」
最後の一言には、成果や数字だけでなく、日常の小さな行動や姿勢が信頼を形作るという社長の哲学が込められていました。

このエピソードから私たちが学べることは少なくありません。
成果が出ないときにこそ、逃げずに向き合うこと
退職届を出すのは簡単です。しかし本当に自分を成長させるのは、その状況から逃げずに挑戦を続ける姿勢です。
給与は感謝の対象ではなく、成長の証であること
給与の上昇は、本人の努力と成果に応じた評価です。だからこそ「与えられたもの」として感謝するよりも、「積み重ねの結果」として受け止めることが重要です。
会社に尽くす心が自分を鍛える
指示に素直に応じ、誰よりも早く多く仕事に取り組む。その積み重ねは会社の利益となり、やがて自分自身の力となります。
小さな行動に人間性が表れる
椅子をしまう、挨拶を欠かさないといった些細な行為が、信頼を築き、社会人としての基盤となります。
退職届を手に社長室を訪れた社員は、最終的に退職を思いとどまりました。それは社長の言葉に励まされただけでなく、自らの心の中に「成長したい」「会社に貢献したい」という本音があったからです。
働く環境が厳しいと感じることは誰にでもあります。しかし、その厳しさを「成長の機会」と捉えるか「逃げたい現実」と捉えるかで、未来は大きく変わります。会社に尽くす心を持ち、素直に学び続ける姿勢こそが、最終的に自分を大きく成長させる道なのではないでしょうか。