
精神科の外来を訪れる患者さんの中には、「うつ病ではないか」と訴えて来院される方が多くいらっしゃいます。うつ病は現代において非常に身近な疾患であり、誰しもが罹患する可能性があります。しかし、診断にあたっては単に「気分が落ち込んでいる=うつ病」と決めつけることはできません。その背景には、脳疾患やホルモンの異常といった、いわゆる「原因のあるうつ状態」が隠れていることがあるからです。
その代表的な例のひとつが「甲状腺機能低下症」です。本記事では、甲状腺の働きと機能低下がもたらす影響、そしてうつ病との関わりについて、詳しく解説していきます。

甲状腺は首の前面、喉仏の下あたりに位置し、ちょうど蝶々が羽を広げたような形をしています。この小さな臓器は「甲状腺ホルモン」を合成・分泌しており、その働きは全身の細胞に影響を及ぼします。
甲状腺ホルモンの主な役割は、体内の代謝を促進することです。いわば体の機能を「ブースト」するスイッチのような存在であり、エネルギー消費を高め、心臓や呼吸の働き、体温調節などにも深く関わっています。

ホルモンが過剰に分泌されると、体は常にアクセルを踏んでいる状態になります。脈が速くなり、呼吸が浅く早くなり、汗が増え、顔が赤らんでほてりを感じることもあります。代謝が高まりすぎることで、いわゆる「躁状態」に似た症状が現れる場合もあります。
一方でホルモンが不足すると、今度は全身の機能が抑えられてしまいます。倦怠感やむくみ、脈拍の低下、強い眠気や意識の低下などが典型的です。そして、その症状のひとつとして「うつ状態」が現れることが知られています。

甲状腺ホルモンは脳の働きとも密接に関係しています。脳の細胞はエネルギー代謝を通じて活動していますが、この代謝には甲状腺ホルモンが欠かせません。さらに、神経伝達物質の合成にも関与しています。
代表的なのが「セロトニン」です。セロトニンは気分の安定に重要な役割を果たしており、うつ病ではその機能低下が主因のひとつとされています。セロトニンはアミノ酸の一種「トリプトファン」から合成されますが、その過程には「トリプトファンヒドロキシラーゼ」という酵素が必要です。甲状腺ホルモンはこの酵素の発現を促進するため、ホルモンが不足するとセロトニンの合成が滞り、結果としてうつ症状に似た状態が生じるのです。
さらに、脳由来神経栄養因子(BDNF)の発現も甲状腺ホルモンによって促進されます。BDNFは神経細胞の成長や修復に不可欠な因子であり、これが不足すると神経ネットワークの健全な働きが損なわれ、精神症状の悪化につながります。

うつ病の診断を受けた場合、甲状腺の異常を見逃さないことが重要です。そのチェック方法は非常にシンプルで、採血によるホルモン測定で判断できます。
特に「FT4(フリーT4)」と呼ばれる指標を確認することが一般的です。正常値は 0.8〜1.7 ng/dL とされ、これを下回ると甲状腺機能低下症が疑われます。
このように採血だけで把握できるため、うつ病と診断された方には一度は甲状腺ホルモンを確認することが勧められます。

もし甲状腺ホルモンの不足が見つかれば、その補充療法によってうつ症状が改善することがあります。これは抗うつ薬とは異なり、体が本来必要とするホルモンを補う「生理的な治療」であるため、副作用のリスクも比較的少なく、合理的な選択肢といえるでしょう。
実際、うつ病と診断された患者さんのうち 5〜6人に1人(約15〜20%) は甲状腺機能低下症が関与していると報告されています。さらに、更年期以降の女性ではその割合が 約30%(3人に1人) にも上るとされており、この年代の女性にとって甲状腺チェックは特に重要です。
甲状腺の異常は「低下」だけではありません。「亢進」の場合は、躁状態に似た症状を呈することがあります。気分が高揚し活動性が増すなど、双極性障害との区別が難しいこともあります。そのため、うつ状態だけでなく、躁状態が見られる患者さんに対しても甲状腺ホルモンの測定は大切です。
うつ病は「原因不明」とされることも多い病気ですが、中には身体的な要因、特に甲状腺機能の異常が隠れている場合があります。
うつ症状で受診された方は、ぜひ一度甲状腺の検査を受けることをお勧めします。適切に原因を見極めることで、より的確な治療につながり、回復の道が開けるかもしれません。