― オープンにするか、クローズにするかの現実と課題 ―
精神疾患を抱える人にとって、日常生活を送るうえで大きな悩みの一つに「病気を職場や学校に伝えるべきかどうか」という問題があります。オープンにすることで理解や配慮が得られる可能性もあれば、逆に偏見や誤解にさらされるリスクもあるため、その判断は非常に難しいものです。本稿では、この「オープン」と「クローズ」の選択について、実際の課題や現状を踏まえて考えてみます。

まず大きな課題として挙げられるのが「通院」の問題です。精神科や心療内科のクリニックの中には、夜遅くまで診療を行っているところもありますが、多くは日中の限られた時間しか受診できません。そのため、月に一度は会社や学校を休まざるを得ないケースが少なくありません。
例えば、月に一度午前休や有給休暇を取得して通院する場合、その理由をどう説明するかが問題になります。家庭の事情として「親の介護」や「子どもの送り迎え」などと伝えることも可能ですが、実際には病気のための通院であることを隠していると、特にうつ病の方などはその「小さな嘘」がじわじわと心に負担を与えてしまいます。
つまり、定期的に休暇が必要になる場合、完全にクローズにしておくのは現実的に難しい側面があるのです。

一方で、「病気をオープンにすれば配慮してもらえるのでは」という期待もあるでしょう。しかし現実には、オープンにしたからといって必ずしも十分な理解や支援が得られるわけではありません。
その理由の一つは、精神疾患に対する社会的理解の乏しさです。統合失調症や双極性障害に関しては「気が狂って犯罪を犯すのではないか」「人を傷つけるのではないか」といった安易で誤ったイメージを持つ人がいまだに少なくありません。双極性障害であれば「怒りっぽい」「情緒が不安定」といった偏見を受けることもあります。
このような先入観がある限り、周囲から自然に配慮を引き出すことは難しいのが現状です。

企業や学校では、メンタルヘルスに関する研修や障害者雇用に関する取り組みが行われることもあります。しかし、そこで教えられる内容は「うつ病の人に『頑張れ』と言ってはいけない」「うつ病は怠けているのではない」といった基本的なものにとどまっているのが実情です。
確かにこれらは大切な知識ですが、それだけで現場での具体的な配慮や理解が十分に行き渡るわけではありません。むしろ「病気をオープンにしたのに配慮してくれない」という不満を持ってしまうと、周囲からは「あの人は図々しい」と受け止められ、人間関係が悪化する可能性すらあるのです。
もちろん、中には理解のある上司や教師も存在します。部下や生徒の病気について自ら学び、時には外来に一緒に付き添うほどの「神対応」をしてくれる人もいます。しかし、それはあくまでごく一部の例にすぎません。現状では「配慮を期待しても得られることはほとんどない」と考えておく方が無難です。

こうした現実を踏まえると、多くの場合「基本はクローズ」で進めることが推奨されます。すなわち、自ら積極的に病気を公表して周囲に理解や配慮を求めるのではなく、必要最低限の人にだけ伝えるという立場です。
例えば、月に一度の通院のために休暇を取らざるを得ない場合、その手続きを担う上司や担当者には病気のことを説明しておく。これはプライバシーに関わる情報なので、広く知られる必要はありませんが、業務に支障が出ない範囲で伝えておくことは、むしろ円滑な関係維持につながります。
一方で、「オープンにすれば配慮してもらえる」と期待してしまうと、現実とのギャップに苦しむ可能性が高くなります。大切なのは、配慮を「期待しすぎない」ことです。周囲の理解が得られれば幸運ですが、それを前提にしてしまうと心が傷つくリスクが大きくなります。

では、最終的に私たちが目指すべき方向はどこにあるのでしょうか。それはもちろん、精神疾患に対する正しい理解が広まり、誰もが安心してオープンにできる社会です。しかし、その道のりはまだ長く、偏見や無理解が根強く残っています。
その意味で、現時点では「現実的にどう生きるか」という視点が必要です。つまり、理想を追い求める一方で、今の社会の限界を受け止め、自分自身を守るために戦略的にクローズを選ぶ。これが現実的で賢明な生き方と言えるでしょう。
精神疾患を職場や学校に伝えるべきかどうかは、非常にデリケートで複雑な問題です。通院や休暇の関係でどうしても伝える必要がある場合もあれば、できる限りクローズにしておいた方が心の安定につながる場合もあります。
重要なのは、「自分を守るためにどうするか」という視点です。オープンにすれば理解されるという期待を持ちすぎず、必要な場面で必要な人にだけ伝える。社会が変わるまでの間は、この「選択的クローズ」が現実的な方法だと言えるでしょう。
そして同時に、私たち一人ひとりが正しい知識を持ち、偏見をなくしていく努力が欠かせません。いつの日か、誰もが安心して「私は病気を抱えています」と言える社会を実現するために。