「子持ちマウント」という現象について考える 〜「普通」という名のプレッシャー〜
今回は、少し風変わりなテーマを取り上げてみたいと思います。それは「子持ちマウント」とでも呼べるような、ある種の人間関係における心理的な現象についてです。私自身の体験をもとに、なぜそうした空気が生まれ、なぜ人はそこにモヤモヤとした居心地の悪さを感じるのかを考察してみたいと思います。
先日、私は中高一貫校時代の同窓会に参加しました。懐かしい顔ぶれとの再会に心躍る反面、ふとした瞬間に奇妙な違和感を覚えました。
それは、自己紹介の時間に始まります。参加者の多くがまず「どこの企業に勤めているか」「どんな役職に就いているか」といった職業的な自己紹介をしていました。そこまではよくある話です。しかし、そのうちの一人が「うちの子どもは今、小学◯年生と◯年生で……」と語り始めると、まるでそれがきっかけであったかのように、他の参加者たちも次々と自分の子どもの話をし始めたのです。
そして不思議なことに、その語り口が「うちは子どもがこれだけ大きく育っている」「ちゃんと家庭を築いている」と、どこか誇らしげに聞こえてきたのです。もちろん、本人たちは自慢をしているつもりはないのかもしれません。それでも、その場にいた何人かの人たちと後で話してみると、同じように「何かモヤモヤしたものを感じた」と口にしていたのです。
そもそも「マウントを取る」とは、他者より自分の立場や価値を優位に見せようとする態度を指します。では、子どもの話をすることで人は何を示そうとしているのでしょうか。
私が感じたのは、「子どもがいる=偉い」「家庭を持っている=一人前」という無意識の価値観が、語り手の中に染みついているのではないかということでした。それが「うちはこれだけ子育てを頑張っている」という、ある種の誇示として表れるのかもしれません。
しかし、ここで興味深いのは、その語り口が「自慢」というよりは「安心」のようにも見えたという点です。つまり、「うちは普通の家庭です」「私は世間的な基準の中にいますよ」と言いたいのではないかと思ったのです。

日本において、「普通の家庭」というイメージは非常に強い影響力を持っています。たとえば、国民的アニメである『クレヨンしんちゃん』の野原家。会社員の父親、専業主婦の母親、2人の子ども、そして郊外の一軒家という設定は、多くの人にとって「理想」というより「これが普通」という刷り込みになっているのではないでしょうか。
このような「普通像」は、無意識のうちに私たちの価値観を形成し、「そこから外れると何かが欠けている」と感じさせる力を持っています。そのため、同窓会などで「普通」を体現しているように見える人たちが、自分の家族構成や生活スタイルを自然に話すだけで、聞いている側は「自分は普通じゃないのかもしれない」という後ろめたさを抱いてしまうのです。
これは実に厄介な現象です。なぜなら、相手がマウントを取っているつもりがなくても、受け手側が「マウントされた」と感じてしまうからです。そして、それこそが「子持ちマウント」と呼ばれる違和感の正体ではないかと思うのです。
私は現在、3人の子どもがいます。しかし、自分が子育てをしているからといって、それが自分の価値を高めているとは全く思いません。正直に言えば、私自身は子育てに対して特別に「頑張っている」という自負もあまりありませんし、むしろ多くの部分を配偶者や周囲のサポートに助けられていると感じています。
それだけに、「子どもがいるから偉い」「子どもがいないから不完全」という考え方には大きな違和感を覚えます。もちろん、子育てを通して自己実現を感じている方も多くいらっしゃるでしょう。それ自体は素晴らしいことです。ただし、それはあくまでその人にとっての充実感であり、他人と比べて優劣をつける材料ではないはずです。

人は本能的に、「群れの中で浮かないこと=生存戦略」として行動します。だからこそ「普通」であることに安心感を求めてしまいます。しかし、今の私たちは、もはや「子孫を残すこと」が唯一の生きる意味だった時代からは大きく進化しています。
確かに、国家として、社会として見れば、少子化は大きな課題です。未来の担い手が減るというのは現実的な問題でしょう。しかし、私たち一人ひとりの人生においては、子どもを持つことが義務でも目標でもありません。子どもがいる・いないによって、その人の価値が決まるような社会は、息苦しさを生み出すだけです。
今回の同窓会で感じたことを通して、私は「子持ちマウント」という現象の正体は、「自分は普通の範疇にいます」と示したいという無意識の心理ではないかと考えるようになりました。そして、それを聞いた側が「自分は普通じゃない」と感じ、後ろめたさを抱く。その構図が、私たちに居心地の悪さを与えているのだと思います。
私たちが目指すべきは、「普通であること」にとらわれず、それぞれの人生の幸せを大切にできる社会です。子どもがいる人生も、いない人生も、どちらも尊いもの。誰かが語る「普通」に、必要以上に影響されることなく、自分の生き方を肯定できるような、そんな世界であってほしいと心から願っています。