私たちは「体の病気」と「心の病気」を、つい別々のものとして考えがちです。たとえば「がん」や「脳梗塞」といった命に関わる病気と、「うつ病」や「統合失調症」といった精神の病気は、まったく違うジャンルのものだとイメージする方も多いでしょう。
でも実際には、体と心は切っても切れない関係にあります。今回は、その不思議なつながりを少し掘り下げてみたいと思います。

日本人の三大死因といえば「がん」「脳血管障害」「感染症」。どれも命を脅かす重大な病気ですが、精神疾患が直接それらを引き起こすことはありません。
「うつ病になったからがんになる」「統合失調症だから脳梗塞を起こす」といった因果関係は基本的にないのです。
ただし逆はあります。大きな病気を抱えることで、心が折れてしまう。がんの診断を受けて強い抑うつ状態になる人、HIVや結核といった慢性的な感染症で孤独や絶望を抱える人。こうしたケースは珍しくありません。
つまり「心が病気を作り出すわけではない」けれど、「病気が心を深く傷つける」ことは十分にあり得るのです。
医療の現場では、さらに不思議な現象が観察されています。
統合失調症やうつ病の患者さんが、重い肺炎や脳梗塞でICU(集中治療室)に入るほどの状態になると、不思議なことに精神症状が目立たなくなるのです。
「命が危ないときに、心の病気は影を潜める」――そんな逆転現象が起こるのです。
本来なら、極限のストレスで悪化しそうな統合失調症の症状が和らぐ。深刻なうつ状態が、生命の危機下ではむしろ改善することすらある。パニック障害の発作も、命の危険に直面したときには起こらない。
この現象は、精神疾患の本質について改めて考えさせられる出来事です。「心の病は、命の危機という大きな力の前では後回しになるのかもしれない」と。

病院の世界には独特の価値観があります。命に直結する病気を扱う診療科は「花形」とされる一方、精神科は軽んじられがち。
「心臓発作を救う医者は偉い。でも、うつ病の患者を診る医者は……」といった声が、残念ながら医療界に今も根強く存在しています。
しかし、患者さんの生活の質=QOLを考えれば、心の問題は極めて大きな意味を持ちます。がんを抱えながらも精神的に前向きに生きる人と、病気は軽くても心が折れて一歩も動けない人。両者の「生きやすさ」の差は歴然です。
命の長さだけでなく、「どう生きるか」という質の部分では、精神科医の存在が社会に果たす役割はとても大きいのです。
日本ではまだまだ「精神疾患は気合で何とかなる」という誤解が残っています。
依存症なら「酒を飲まなければいい」、うつ病なら「やる気を出せばいい」。そんなふうに考える人も少なくありません。
けれど実際には、心筋梗塞が気合で血管を通すことができないように、パニック発作もうつ病も、意志の力で抑え込めるものではありません。
「がんは気合で治らない」と誰もがわかっているのに、精神疾患にだけは「気合でなんとかなる」と思ってしまう――。この認識のズレこそ、社会が変えていくべき部分なのです。
体の病気と比べると、精神の病気はどうしても後回しにされがちです。しかし患者さんの日常や人生の満足度を考えると、心の健康は欠かせません。
精神科医療は「命を救う」だけでなく、「その人らしく生きる力を取り戻す」ための医療です。もっと理解され、もっと大切にされていい分野です。
気合では治らない――でも、治療や支援で改善できる。そんな当たり前のことが広く知られる社会になれば、精神疾患を抱える人たちの暮らしはずっと生きやすくなるはずです。

体と心は表裏一体。どちらか一方だけを切り離して語ることはできません。命の危機に直面すると心の病が隠れてしまう現象は、人間という存在の不思議さを改めて教えてくれます。しかし、だからといって精神疾患が軽いものだという誤解につながってはならないのです。
むしろ、日常生活を送るうえで心の健康がどれほど大きな意味を持つか、患者さんや家族の声から強く伝わってきます。体がどれだけ元気でも、心が折れてしまえば日常は成り立ちません。反対に、重い病気を抱えていても心が前を向いていれば、人生の質は大きく保たれるのです。
だからこそ、私たち一人ひとりができることがあります。身近な人が苦しんでいたら、「頑張れ」という言葉ではなく「一緒に病院に行こうか」「話を聞くよ」と寄り添う姿勢を見せること。職場では、本人の努力不足と決めつけず「病気だからこそ支援が必要だ」と考えること。家族であれば、「治るんだ」という希望を共有し、孤立させないこと。これらの小さな行動の積み重ねが、社会全体の空気を変えていきます。
医療者だけでなく、社会全体が体と心の両方を支える姿勢を持つこと――それが、患者や家族を救い、日本の医療をさらに前に進める大きな力になるでしょう。
これからの時代に求められるのは、命の長さを延ばす医療と同じくらい、「どう生きるか」を支える医療です。体の健康と心の健康、両輪がそろってこそ、人は真に自分らしく生きられるのではないでしょうか。
読者の皆さんも、身近な人の体調や心の不調に目を向けてみてください。体と心は切り離せない――このシンプルな真実を社会が受け入れたとき、より優しく、より生きやすい社会が実現するはずです。