私たちは生きている中で、思い通りにいかないことや嫌な出来事に直面します。そんな時、「あの人のせいでこうなった」と人に責任を求める考え方を他罰思考といいます。その反対に、「自分が悪かったんだ」と自分を責めてしまう考え方を自責思考と呼ぶことができます。
どちらの考え方も、日常の中で誰もが少なからず持っているものです。しかし、その度合いによって人間関係の築きやすさや、心の状態に大きく影響を与えることがあります。ここでは「他罰思考」と「自責思考」の特徴や、どのように付き合っていけば生きやすくなるのかを考えていきたいと思います。

たとえば職場で上司に注意されたとしましょう。
同じ出来事でも、心の中でどちらに比重を置くかによって受け止め方がまったく変わってきます。
一般的に、自責思考が強い人は自分を追い込みやすく、落ち込みやすいと言われます。一方で他罰思考が強すぎる人は、周囲との関係がギクシャクしやすく、「付き合いづらい人」と見られてしまうことがあります。

夫婦や家族、友人との関係を例に考えてみましょう。
ある家庭で、子どもが万引きをしてしまったとします。そのときの親の反応は大きく分けて二つです。
つまり、他罰思考は周囲を傷つけやすく、自責思考は自分を傷つけやすい。どちらにもメリットとデメリットが存在するのです。

日本では昔から「人を疑う前にまず自分を省みよ」という考え方が重んじられてきました。何か問題が起きたとき、まず「自分に落ち度がなかったか」を考え、それでも見つからなければ相手のせいだと考えてよい、という考え方です。
この文化は謙虚さや誠実さを育む一方で、「常に自分が悪い」と思い込んでしまう人を生みやすい側面もあります。特に「○○すべき」「こうあるべき」といった“べき思考”を持ちやすい人は、自分を責める方向に傾きやすく、「どこに行っても自分はダメだ」と思い込みやすくなります。
その結果、気持ちが沈んで前向きになれず、生活全体が重たくなってしまうことも少なくありません。
ここで大切な視点は、「生きること自体、誰にとっても苦しいものだ」ということです。
学校に行くのも、仕事に行くのも大変です。経済的に恵まれている人でも、健康の不安や人間関係の悩みを抱えています。逆に経済的に苦しい人は、明日の生活への不安に追われます。どんな立場であっても、「生きるのはつらい」と感じる瞬間は避けられないのです。
つまり、人生が思い通りにいかないのは自分だけのせいではありません。人間という存在そのものが苦しさを抱えやすく、その人間が作った社会もまた、どうしても生きづらさを生み出してしまうのです。
だからこそ「こんなに生きづらいのは自分が悪いからだ」と思い込むのは、必要以上に自分を苦しめることにつながります。
ではどうすればよいのでしょうか。ひとつの方法として、「他罰思考を少し取り入れる」という考え方があります。
ただし、ここでいう他罰思考は特定の誰かを攻撃するのではなく、もっと広い視点で「人間はもともとそういうものだから」「社会はそういう仕組みだから仕方がない」と受け止めるスタンスです。
これを「諦観(ていかん)」と呼ぶこともできます。完全に諦めるのではなく、「人間や社会は不完全だから、苦しさがあって当然」と一歩引いた目で眺める姿勢です。
そのうえで、小さな幸せに目を向けることが大切です。美味しいものを食べて「幸せ」と感じること、朝すっきり起きられたこと、空が澄んでいて気持ちよかったこと――こうした日常の中のささやかな喜びに焦点を当てるのです。
苦しさのすべてを取り除くことはできなくても、視点を変えることで心の負担を少し軽くすることができます。
では、実際にどうすればこの考え方を生活に取り入れられるでしょうか。

他罰思考は一般的に「良くないもの」と思われがちです。しかし、自責思考が強すぎて自分を責めすぎてしまう人にとっては、むしろ他罰思考を少し取り入れることが救いになることもあります。
「人間とはそもそも生きづらい存在なのだ」「社会とはそもそも不完全な仕組みなのだ」と受け止め、そのうえで小さな幸せを大切にしていく。こうした姿勢は、肩の力を抜いて生きていく助けになるでしょう。
自分を追い詰めすぎず、ときには「仕方がない」と割り切る。他罰思考をうまく使いながら、日々の生活の中に小さな喜びを見つけていくことが、私たちが少しでも生きやすくなるヒントになるのではないでしょうか。