近年、腸内細菌と人間の健康との関わりについて多くの研究が進められています。特に「腸内フローラ」と呼ばれる腸内の細菌叢は、消化や免疫だけでなく、心の健康にも影響を与える可能性があるとして注目を集めています。乳酸菌飲料で知られるヤクルトや、ヨーグルトなどの発酵食品を扱う企業がこの分野に参入していることからも、その社会的関心の高さがうかがえます。企業にとっては、腸内環境を整えることでさまざまな不調が改善することを科学的に示すことが重要であり、そのために研究者や大学と連携し、研究資金を投じてきました。副作用が少ないという利点もあり、腸内フローラの改善は医療や健康の領域で幅広く注目されています。
では、腸内環境を整えることで精神疾患、特にうつ病や自閉スペクトラム症といった疾患にどのような影響があるのでしょうか。本稿では、現段階で明らかになっている知見を整理しながら、その可能性について考えていきます。
腸内細菌には大まかに分けて「善玉菌」「悪玉菌」、そしてそのどちらにも属さない常在菌が存在します。善玉菌の代表例はビフィズス菌や乳酸菌で、腸内環境の改善に寄与することが知られています。一方、悪玉菌には大腸菌やクロストリジウム菌など、体調を崩す原因となり得る菌が含まれます。ただし「悪玉菌=不要」というわけではなく、一定の割合で存在することが望ましいとされています。つまり重要なのは、腸内細菌の種類そのものよりも「バランス」なのです。
うつ病患者と健常者の腸内細菌を比較すると、うつ病患者では悪玉菌が多く、健常者では善玉菌が多い傾向が報告されています。これは便を培養し、どの菌がどの程度存在しているかを調べることで明らかにされています。しかし、この結果が示すのは「関連」であり、因果関係ではありません。つまり「うつ病だから腸内環境が乱れたのか」「腸内環境が乱れたからうつ病になったのか」、その因果はまだ解明されていないのです。

腸内細菌と精神疾患の関係を説明する上で重要なのが「脳腸相関」という概念です。脳と腸は自律神経を通じて密接に連携しており、脳からの指令によって腸の働きが変化します。ストレスで便秘や下痢を経験するのも、この仕組みの一例です。
さらに注目すべきは神経伝達物質「セロトニン」です。セロトニンは気分の安定に深く関与しており、うつ病治療においても重要な役割を果たしています。その約8割が腸内細菌によって産生されていることがわかっています。腸内で作られたセロトニンがそのまま脳に届くわけではありませんが、体内に存在するセロトニンの多くが腸内細菌由来であるという事実は、腸と脳がいかに密接に関わっているかを物語っています。

最大の関心は「腸内環境を改善すれば精神疾患が良くなるのか?」という点でしょう。しかし現時点で「ヨーグルトを食べると必ずうつ病が改善する」といった決定的な科学的証拠は存在しません。例えば毎日ヤクルトを飲んで腸内環境が改善した人の中にうつ症状が改善したケースはありますが、それが「腸内環境が改善したからうつ病が治った」のか、「うつ症状が改善した結果として腸内環境も整った」のかは不明なのです。
それでも、腸内フローラを善玉菌優位に保つことは健康全般にとって望ましいと考えられます。乳酸菌飲料やヨーグルトを日常的に摂取することのデメリットは少なく、牛乳アレルギーなどの特殊な事情がない限り、安全性も高いと言えるでしょう。

精神科外来においては、うつ病治療の基本は「休養」「薬物療法」「心理的カウンセリング」の三本柱です。そこに「食事指導」という第四の柱を加えることで、より包括的な治療が可能になると考えられています。特に規則正しい食生活は基本中の基本であり、三食を決まった時間に摂ることが最も重要です。
そのうえで、さらに前向きに取り組める患者さんには「1日1本のヤクルト」「1日1回のヨーグルト」といった具体的な習慣を提案することがあります。実際に、こうした食生活の改善まで取り組める方は症状の改善も見られることが多く、臨床現場でも手応えが感じられています。
腸内細菌と精神疾患の関係は、うつ病だけでなく自閉スペクトラム症との関連でも研究されています。こちらも因果関係の解明は途上ですが、腸内環境が行動や認知機能に影響を及ぼす可能性が指摘されています。いずれにしても「腸内環境を整えることが精神の健康に寄与するのではないか」という仮説は、今後さらに多くの研究によって裏付けられていくでしょう。

腸内細菌と精神疾患の関係は、現在も活発に研究が進められている分野です。うつ病や自閉スペクトラム症において腸内環境が乱れているという報告はあるものの、それが原因なのか結果なのかは明確ではありません。しかし、規則正しい食生活に加え、ヨーグルトやヤクルトといった発酵食品を日常的に取り入れることは、安全性が高く、健康維持に役立つ可能性があります。
医学的な因果関係の解明にはまだ時間がかかるでしょう。それでも、心身の健康を支える一助として「腸内フローラを整える」という視点は、今後ますます重要になっていくと考えられます。