私たちの体は、日々外からの病原体だけでなく、体内で発生する異常な細胞とも戦っています。その代表が「がん細胞」です。がんは健康な細胞の遺伝子が傷つき、制御が効かなくなって際限なく増え続けるようになった状態です。しかし、体にはそのような危険な細胞をいち早く見つけ出し、攻撃して排除する免疫システムが備わっています。
つまり、私たちの体の中では常に「がん細胞」対「免疫細胞」というせめぎ合いが行われているのです。もし免疫が常に完全勝利を収めていれば、理論上、がんは発症することはありません。実際、多くの異常細胞は免疫の監視の目から逃れられず、消えていきます。しかし、それでもがんが発生し、進行してしまうのはなぜでしょうか。
近年の研究で明らかになってきたのは、がん細胞が非常に巧妙な手段を使って免疫の攻撃から逃れているという事実です。この現象を「がんの免疫逃避」と呼びます。免疫逃避が起こると、がん細胞は生き延びて増殖し、やがて命に関わる病気へと進展してしまいます。
ここでは、研究の進展によってわかってきた「がんが免疫から生き残る三つの戦略」を紹介します。

免疫は強力な武器である一方、暴走すると自分自身の組織を攻撃してしまう危険性もあります。そこで体には「チェックポイント」と呼ばれるブレーキ機構が備わっており、免疫細胞の働きを適度に抑えています。
代表的なのが、T細胞表面の「PD-1」という分子と、それに結合する「PD-L1」「PD-L2」です。通常、この結合が起きるとT細胞の攻撃は弱まり、免疫反応が沈静化します。
問題は、がん細胞がこの仕組みを逆手に取ることです。がん細胞は自らの表面にPD-L1を発現し、T細胞のPD-1に結合することで、あたかも「ブレーキを踏む」ように免疫の攻撃を阻止します。これによって、免疫本来の力を封じ込めることに成功するのです。
この仕組みを狙ったのが「免疫チェックポイント阻害薬」です。抗体医薬によってPD-1とPD-L1の結合を妨げ、ブレーキを解除します。するとT細胞が再び活性化し、がん細胞への攻撃力を取り戻します。実際に、この薬は悪性黒色腫や肺がん、腎細胞がんなどで劇的な効果を示し、「夢の新薬」として世界中に広まりました。
ただし、効果が現れる患者は一部に限られることも知られています。そのため、どの患者に有効なのかを予測する「バイオマーカー」研究も盛んに進められています。例えば、がん細胞のPD-L1の発現量や遺伝子変異の有無が、治療効果の指標として利用されています。
免疫の中心的役割を担うT細胞には、敵を攻撃するものだけでなく、過剰な反応を抑える「制御性T細胞(Treg)」も存在します。Tregは免疫のブレーキ役であり、自己免疫疾患を防ぐうえで不可欠ですが、その働きが強すぎると免疫の攻撃力そのものが低下してしまいます。
がんはこの点を巧みに利用します。がん組織の中では、Tregが異常に増えていることが多く報告されています。TregはキラーT細胞の働きを抑制するため、結果としてがん細胞は攻撃を免れ、成長を続けることができるのです。
東京大学の研究チームは2019年に、イヌの膀胱がんにおいてTregが多く集まっている症例では生存率が低下することを示しました。また、免疫チェックポイント阻害薬が効きにくくなる例も報告されています。つまり、がんはTregをうまく引き寄せ、免疫を骨抜きにすることで自らの生存戦略を完成させているのです。
なぜがん組織にTregが集まるのかについては研究が進んでいます。がん細胞が分泌する特殊なサイトカインや、腫瘍微小環境における慢性的な炎症反応がTregを呼び寄せていると考えられています。これらの知見は、Tregを抑える治療、あるいは一時的に働きをブロックする戦略につながる可能性があります。実際、Tregを標的とする抗体医薬や低分子薬の研究開発が世界各国で進められています。

がんの免疫逃避の中で、特に驚きをもって迎えられたのが「ミトコンドリアの乗っ取り」という仕組みです。
ミトコンドリアは細胞の中でエネルギーをつくり出す小器官で、独自のDNAを持っています。がん細胞のミトコンドリアにはしばしば遺伝子変異が存在することが知られていましたが、近年の研究でさらに衝撃的な事実が明らかになりました。
なんと、がん細胞は「エクソソーム」と呼ばれる小さな小胞を利用して、自らの異常なミトコンドリアを免疫細胞へ送り込むことができるのです。異常なミトコンドリアを受け取ったT細胞はエネルギー産生が乱れ、老化したような状態になって機能を失います。つまり、免疫細胞が戦う力を自ら放棄してしまうのです。
これはがんが免疫細胞の働きを直接的に「乗っ取る」仕組みであり、従来の想像を超える戦略として大きな注目を集めています。ミトコンドリアの異常と免疫機能不全を結びつけたこの研究は、がん治療の新しい可能性を示しました。将来的には、エクソソームの放出を防ぐ薬や、異常なミトコンドリアを分解する仕組みを活性化する薬が開発されるかもしれません。
以上、がんが免疫から逃れる三つの戦略を見てきました。
これらはいずれも、がんが生き残るために編み出した驚くべき仕組みです。がんは単なる「細胞の暴走」ではなく、免疫との戦いを勝ち抜くための知恵を備えた存在だといえるでしょう。

がんと免疫の戦いは、人類が長く向き合ってきたテーマです。ここ数年で研究は飛躍的に進み、がんの免疫逃避の仕組みが次々と明らかになっています。
免疫チェックポイント阻害薬の登場は、その成果を最も象徴するものです。そして今、制御性T細胞やミトコンドリアをめぐる研究が新しい治療法への道を開きつつあります。
一方で、すべての患者に効果があるわけではなく、副作用も無視できません。免疫を強めれば自己免疫的な炎症が起きる危険があり、抑えすぎれば感染症のリスクが増すなど、免疫のコントロールは極めて繊細です。だからこそ、患者ごとに最適な治療を見極める「個別化医療」が重要視されています。
がんは賢く、しぶとい相手です。しかし、その知恵を一つひとつ解き明かしていくことが、より効果的ながん治療の開発につながります。免疫の力を最大限に引き出す治療は、これからのがん医療の中心的役割を担っていくでしょう。