がん細胞は夜おとなしく眠るのか?

――体内時計とがんの知られざる関係――

夜になると、私たちは眠りにつきます。人間を含む多くの動物は昼に活動し、夜は休息する――それが自然のリズムです。では、私たちの体の中に潜む「がん細胞」も同じように夜はおとなしく眠るのでしょうか?
この一見ユニークな問いが、実は近年の医学研究で重要なテーマになっているのです。

◆ 正常な細胞のリズム

私たちの体の中では、すべての細胞が一定のリズムを刻んでいます。一般的に、正常な細胞は朝から昼にかけて活発に分裂・増殖し、夕方から夜にかけてはその活動を抑える傾向があります。これは体の「サーカディアンリズム(概日リズム)」、つまり体内時計の働きによるものです。
しかし、がん細胞の場合はどうでしょうか? それも同じように夜は休んでくれるのでしょうか?

◆ 「がん細胞は夜眠るのか?」という研究

◆ 「がん細胞は夜眠るのか?」という研究

この問いを正面から取り上げた研究が、2020年に科学誌『Genome Biology(ゲノムバイオロジー)』に発表されました。タイトルもずばり「Do cancer cells sleep at night?(がん細胞は夜眠るのか?)」というものです。

これまで、がん細胞の活動と昼夜の関係を調べた研究はほとんどありませんでした。しかし近年になって、体内時計とがんの関係が少しずつ解き明かされてきています。

◆ 夜に活発化するがん細胞

最初に注目すべき研究は、1993年に『Cancer Research』誌に掲載されたものです。リンパ腫の患者から採取した腫瘍細胞と、正常な骨髄細胞を比較し、24時間の細胞周期を調べた結果が報告されています。

結果は驚くべきものでした。正常な骨髄細胞では、夜になるとDNAの合成が低下し、朝から昼にかけて上昇してピークに達したあと、再び夜にかけて落ち着く――つまり、昼に活発で夜は休むという一般的なリズムを示していました。


ところが、がん細胞ではまったく逆の現象が見られたのです。朝から昼にかけて活動が低下し、夜になるとDNAの合成が活発化していたのです。言い換えれば、がん細胞は夜に目を覚まし、増殖を始めていたということです。

◆ 夜に進む「転移」のメカニズム

さらに2022年、『Nature』誌に発表された研究が、この疑問に新たな光を当てました。タイトルは「Breast cancer metastasis accelerates during sleep(乳がんの転移は眠っている間に加速する)」です。

がんの転移は、腫瘍からがん細胞が血管内に侵入し、血液に乗って全身を巡ることで始まります。こうした血液中のがん細胞は「循環腫瘍細胞(CTC)」と呼ばれます。
研究チームは乳がん患者の血液を昼夜にわたって調べ、夜間、特に睡眠中にCTCが増加していることを発見しました。

グラフにすると、夜間から早朝にかけて赤く示されたCTCの数が、昼間(青色の部分)より圧倒的に多かったのです。つまり、寝ている間に血液中へ放たれるがん細胞が増えている、という驚くべき結果でした。

さらに研究者たちは、昼に採取したCTCと夜に採取したCTCをそれぞれマウスに移植して比較しました。その結果、夜のCTCを移植したマウスの方が多くの転移を形成し、腫瘍の成長も早かったのです。
このことから、がん細胞は夜の間に数を増やすだけでなく、転移能力まで高まることが示されました。

◆ なぜ夜に活発になるのか?

◆ なぜ夜に活発になるのか?

では、なぜがん細胞は夜になると活発化するのでしょうか?
その理由はまだ完全には解明されていませんが、体内のホルモンや免疫、代謝のリズム――つまりサーカディアンリズムが深く関与していると考えられています。

例えば、夜勤を続ける女性に乳がんの発症率が高いこと、不眠傾向の人にがんが多いことなどが報告されています。これらの事実は、体内時計の乱れががんの発生や進行に影響している可能性を裏付けています。

◆ がんが「体内時計」を乱す?

最近の研究ではさらに驚くべきことが分かってきました。産業医科大学と東京慈恵会医科大学の共同研究によると、がん細胞を移植したマウスでは、活動と休息のリズムそのものが「昼夜逆転」してしまうというのです。

マウスは本来、夜行性で夜に活動します。しかし人のがん細胞を移植すると、マウスは夜に休み、昼間に活発に動くようになりました。そして、腫瘍を摘出すると再び元のリズムに戻ったのです。
この結果は、がんが何らかの物質を分泌し、宿主の体内時計そのものを乱している可能性を示しています。つまり、がんは自らが増殖・転移しやすい環境をつくり出しているのかもしれません。

◆ 「時間治療」という新しい戦略

こうした知見を活かそうという試みが「時間治療(クロノセラピー)」です。
これは九州大学の大戸先生らが提唱した方法で、体内リズムに合わせて治療を最適化するという考え方です。たとえば、抗がん剤の投与量を24時間のうちで変化させ、夜間――がん細胞が最も活発になる時間帯に薬剤を多く投与し、昼間は減らすといった工夫が行われています。

これにより、正常な細胞へのダメージを最小限に抑えつつ、がん細胞を効率的に攻撃できる可能性があるのです。

◆ おわりに

◆ おわりに

「がん細胞は夜眠るのか?」という問いは、単なる好奇心から始まったもののように見えますが、実は生命のリズムと病の本質を探る重要な鍵を握っています。
がんは、私たちの体内時計に従うのではなく、それを利用し、時に書き換えてしまう存在かもしれません。

このリズムの仕組みを理解することは、がん治療の未来を大きく変える第一歩です。
夜、私たちが眠っている間にも、体の中では静かに、しかし確かに、細胞たちのドラマが進行しているのです。