
がんという病気には、他の疾患とは決定的に異なる特徴があります。それは「転移」という現象です。
がんは、最初に発生した部位(原発巣)から離れ、リンパや血液の流れに乗って体の遠くの場所へと移動し、そこで新たに成長を始めることがあります。これが「転移」です。
医学の進歩によって、転移がどのように起こるのか、そのメカニズムについてはかなり解明されてきました。
しかし、長年にわたり残されてきた根本的な問いがあります。
それは――「がんはなぜ転移するのか?」ということです。
単なる偶然や機械的な流れではなく、がん細胞があえて「移動」を選ぶように見える理由は何なのか。
まるで、住み慣れた土地が手狭になった住人が新たな場所を求めて引っ越すようにも見えるこの現象の背後には、どのような“きっかけ”があるのでしょうか。
この問いに対して、京都大学などの研究グループが世界的に注目される成果を発表しました。
それが「がんが転移する理由の一端を明らかにした」という最新の研究です。
この研究成果は、2025年に世界的科学誌『Nature Cell Biology(ネイチャー・セル・バイオロジー)』に掲載されました。
研究グループが注目したのは、がんの内部に存在する「活性酸素種(Reactive Oxygen Species:ROS)」と呼ばれる物質です。
活性酸素種とは、私たちの体が酸素を利用してエネルギーを作る過程で自然に発生する副産物です。
過酸化水素やヒドロキシラジカルなど、非常に反応性の高い不安定な物質であり、過剰に発生するとDNAや脂質、タンパク質を傷つけてしまいます。
つまり、活性酸素種はどんな細胞にとっても有害な「毒」です。
そのため、これまでの研究でも、がん細胞は常に強い酸化ストレスにさらされていることが知られていました。
しかし、それが「転移」という現象にどう関わっているのかについては、これまでほとんど分かっていませんでした。
京都大学の研究チームは、まず「がんの中で過酸化水素がどこにどのくらい存在するのか」を可視化するための新しいツールを開発しました。
その結果、驚くべきことに、がんの中には過酸化水素が高濃度に蓄積している特定の領域が存在することが分かりました。
研究者たちはこの領域を「ホットスポット」と名づけました。
ホットスポットでは、がん細胞が集団から離れ、ばらばらに動き出す様子が観察されました。
この現象は「簇出(ぞくしゅつ)」または「出芽(しゅつが)」と呼ばれ、転移のごく初期段階で見られる特徴的な動きです。
つまり、活性酸素が多い場所ほど、がん細胞は「移動」を始める傾向を示したのです。

では、その活性酸素種はどこから生まれているのでしょうか。
研究をさらに進めたところ、ホットスポットの近くには、免疫細胞の一種である「好中球」が多数集まっていることが明らかになりました。
好中球は、本来は細菌などを攻撃するために過酸化水素を放出する働きを持っています。
しかし、がんの周囲ではこの好中球の働きが裏目に出て、過酸化水素を過剰に作り出してしまっていたのです。
つまり、がんの近くに集まった好中球が過酸化水素を生成し、それが周囲に蓄積してホットスポットを作る。
その「毒の環境」から逃げ出そうとするかのように、がん細胞は動きを活発化させ、転移を始める――という仕組みが浮かび上がりました。
研究チームは、過酸化水素に反応して「MYC」というがん遺伝子が活性化することも突き止めました。
このMYC遺伝子は細胞の増殖や代謝を促進する役割を持ち、がん細胞の「動き」を加速させるスイッチのような存在です。
興味深いことに、この現象は乳がん、肺がん、胃がん、大腸がん、卵巣がんなど、さまざまな種類のがんで共通して確認されました。
ここまでの結果から、研究者たちは新たな仮説を立てました。
「もし、がんのまわりから活性酸素種を取り除くことができれば、転移を防げるのではないか?」
この仮説を検証するため、さまざまな種類のがんを発症させたマウスに対して、過酸化水素を分解する酵素「カタラーゼ」を投与する実験が行われました。
その結果、がんの転移が60〜70%も抑えられたのです。
写真で見ると、カタラーゼを投与したマウスでは、肝臓に転移したがん細胞が目に見えて減少していました。
これは、抗酸化作用によってがん細胞が転移を起こしにくくなったことを示しています。
この研究から導かれる結論は非常に興味深いものです。
がんが転移する理由のひとつは、自らが作り出した「毒の環境」から逃れるためだった、というのです。
がん細胞は、体内の酸化ストレスという過酷な環境を感知すると、そこから脱出するように別の場所へ移動します。
つまり転移とは、がん細胞にとって“生き延びるための逃走”でもあったのです。
これまで、「がんの転移=偶然の産物」と考えられていた部分に、明確な生物学的な理由が見えてきたことになります。

今回の成果は、がん転移の根本的な仕組みに迫る重要な一歩です。
活性酸素を標的にした新しい治療法の開発につながる可能性があります。
ただし、抗酸化物質を安易に摂取すれば転移を防げるというわけではありません。
人間の体内では、活性酸素は免疫機能にも必要な役割を果たしており、バランスを崩すと逆効果になることもあります。
今後は、がん細胞周囲の活性酸素だけを選択的に抑える方法の確立が課題となります。
今回の京都大学の研究によって、がん転移の謎の一端がついに明らかになりました。
がん細胞は、「活性酸素」という毒に追われるようにして移動を始める――その姿は、まるで過酷な環境から逃げ出す生物のようです。
転移はがん治療の最大の壁といわれますが、この発見によって、今後は転移を防ぐ新しい治療戦略が生まれるかもしれません。
がん研究は、今まさに「がんがなぜ動くのか」という根源的な問いに答えようとしています。
この重要な発見が、未来のがん治療の希望につながることを期待したいと思います。