がんになると、体重が減っていく――そんな光景を目にしたことのある方は多いのではないでしょうか。
食事量が減っているわけでもないのに、筋肉が落ち、体全体が痩せていく。この現象の背後には「カヘキシア(悪液質)」と呼ばれる病態が潜んでいます。
カヘキシアとは、がんなどの慢性疾患に伴って起こる進行性の体重減少で、脂肪だけでなく筋肉も失われていく状態を指します。特に進行がんの患者さんでは、このカヘキシアが治療の効果や生存期間にも影響を及ぼすことが知られています。
しかし、この筋肉やせの原因はいまだ完全には解明されていません。最近の研究では、その鍵が「腸内環境」、つまり腸内細菌のバランスにあるのではないかと注目されています。

腸と筋肉。まったく別の臓器のように見えますが、実はこの二つは深くつながっていることが近年明らかになってきました。
腸の中には、数百兆個ともいわれる腸内細菌がすみついており、食べたものを分解したり、ビタミンを作ったり、免疫を整えたりと、体の健康を支える重要な役割を果たしています。
その腸内環境が乱れると、炎症反応が起こりやすくなったり、エネルギー代謝やホルモンの働きに異常が生じたりすることがわかっています。こうした全身への影響が、結果的に筋肉量や筋肉の働きを低下させてしまうのです。
実際に、食事から十分にタンパク質を摂取しても、腸内環境が悪化していると栄養の吸収や代謝がうまくいかず、筋肉を合成するための材料が体内に取り込めない場合があります。つまり、いくら栄養を摂っても、腸が健康でなければ筋肉は育たないのです。

腸と筋肉の関係を裏付ける研究はいくつも報告されています。
そのひとつが、2019年に医学雑誌『Science Translational Medicine』に発表された実験です。
研究では、腸内細菌が存在しない「無菌マウス」と、通常の腸内細菌を持つマウスを比較しました。すると、無菌マウスでは筋肉の量が少なく、筋力も低下していたのです。
この結果から、腸内細菌は筋肉の成長や維持に不可欠であることが示されました。
さらに、がん患者の腸内環境を調べた研究では、進行がんでカヘキシアを合併している患者の腸内細菌の多様性が、筋肉量を維持できている患者と比べて低いことが分かりました。
つまり、腸内細菌のバランスが乱れている人ほど筋肉が減りやすい傾向があるのです。
では、腸内環境を整えることで、がん患者の筋肉減少を防ぐことはできるのでしょうか。
この問いにヒントを与えてくれるのが、2022年に『Cancer Science』という雑誌に掲載されたマウスの研究です。
研究チームは、がん細胞を移植してカヘキシアを発症させたマウスを、次の2つのグループに分けました。
結果は驚くべきものでした。食物繊維を摂らなかったA群のマウスでは、がんの進行とともに体重が減少していきましたが、食物繊維を摂取していたB群のマウスでは体重の減少がほとんど見られず、筋肉量も保たれていたのです。
さらに腸内細菌を調べると、食物繊維を摂っていたマウスでは「ビフィズス菌」や「アッカーマンシア菌」などの善玉菌が増えていました。
これらの菌は腸の炎症を抑え、エネルギー代謝を整える作用があることが知られており、腸内細菌の改善が筋肉減少の抑制につながったと考えられます。
このような研究から、カヘキシアの新しい対策として期待されているのが、「腸内細菌を整える治療」です。
その代表的な方法が、
この2つを組み合わせることで、腸内細菌のバランスを整え、炎症を抑え、栄養吸収を助けるといった効果が期待されています。
さらに、腸内細菌移植(FMT:Fecal Microbiota Transplantation)と呼ばれる治療法も研究が進められています。これは、健康な人の腸内細菌をがん患者の腸に移植するという方法で、腸内環境を一気に改善できる可能性があります。
現時点では研究段階ですが、将来的にはカヘキシア治療の柱となるかもしれません。

もちろん、日常生活でも腸内環境を整えることは可能です。
たとえば以下のような食習慣が、腸内細菌のバランスを整えるのに役立ちます。
これらの習慣はがん患者に限らず、一般の方の健康維持や筋力維持にも効果的です。
がんに伴う筋肉やせ(カヘキシア)は、従来は「避けられない症状」とされてきました。
しかし、最新の研究から、腸内環境の改善が筋肉の維持につながる可能性が見えてきたのです。
腸内細菌は、単に消化を助ける存在ではなく、全身の代謝や免疫、さらには筋肉の健康にまで影響を及ぼす重要なパートナーです。
今後、プロバイオティクスやプレバイオティクスを活用した腸内細菌の調整療法が、がん患者のQOL(生活の質)を高める新しい戦略として発展していくことが期待されます。
「筋肉を守るには、まず腸を整える」――。
この発想が、これからのがん治療を変えていくかもしれません。