がん治療は年々進歩しており、かつては治療が難しかった多くのがんでも、生存率が向上してきました。しかしその一方で、治療後の「再発」という問題はいまだ大きな壁として立ちはだかっています。抗がん剤や放射線治療を受けて一度はがんが消えたように見えても、しばらくして再び腫瘍が現れる――その原因の一つとして、近年注目されているのが「がん幹細胞(がんかんさいぼう)」です。
本記事では、がん幹細胞とはどのような細胞なのか、そして2024年7月に発表された慶應義塾大学の研究グループによる最新の成果について、わかりやすく解説します。

一般的に「がん」と聞くと、一種類の細胞が増殖してできる病気だと考えられがちです。しかし、実際のがん組織の中には、さまざまな性質を持つ細胞が混在しています。その中でも特に注目されているのが、「がん幹細胞」と呼ばれるごく一部のがん細胞です。
がん幹細胞は、ほかのがん細胞に比べて生命力が非常に強く、治療に対して抵抗性を示す特徴を持ちます。しかも、自分と同じような性質を持つ細胞を次々と生み出す能力があり、たった一つの細胞からでも腫瘍を形成することが知られています。まさに「がんの親玉」とも言える存在です。
こうしたがん幹細胞は、抗がん剤や放射線治療を受けても生き残りやすく、治療後にわずかでも体内に残ると、時間をかけて再びがんを作り出す可能性があります。そのため、がんを根治させるためには、がん幹細胞を完全に排除することが重要と考えられています。
近年の研究で明らかになってきたのは、がん幹細胞が抗がん剤の攻撃から逃れるために、「休眠状態(スリープ状態)」に入るという驚きのメカニズムです。
通常の抗がん剤は、分裂や増殖を活発に行っている細胞を狙って攻撃します。しかし、がん幹細胞が一時的に増殖を止めて“眠っている状態”に入ってしまうと、抗がん剤の効果が及びにくくなります。治療が終わった後、この休眠状態のがん幹細胞が再び目を覚まして増殖を始めることで、がんが再発してしまうというわけです。

2024年7月7日、世界的な科学誌「Nature」の電子版に、慶應義塾大学の研究グループによる画期的な論文が掲載されました。この成果は、がん幹細胞がどのように抗がん剤を逃れて再発の原因となるのかという長年の謎を明らかにしたものです。
この研究はNHKニュースでも「大腸がん再発の仕組み解明 慶応大グループ 治療の開発に期待」として紹介され、大きな注目を集めました。
研究チームはまず、大腸がん患者のがん細胞から「オルガノイド」と呼ばれるミニ臓器モデルを作製しました。これは、人間のがん組織を模した立体的なモデルで、実際のがんのふるまいを再現することができます。
このオルガノイドをマウスの背中に移植し、がん幹細胞だけが蛍光色に光るように遺伝子操作を行うことで、生きたままリアルタイムでがん幹細胞の動きを観察するシステムを構築しました。レーザー顕微鏡を使い、約1か月間にわたって腫瘍の成長を観察したところ、がん幹細胞の中には「増殖しているもの」と「休眠状態にあるもの」の2種類が存在することが分かりました。
次に、研究チームは抗がん剤を投与して、がん幹細胞がどのような変化を示すのかを調べました。その結果、すべてのがん幹細胞が生き残るわけではなく、休眠状態に入っていた細胞だけが抗がん剤を乗り越えて生き延びることが明らかになりました。
興味深いことに、この休眠状態のがん幹細胞は、大腸の組織構造の中で「基底膜」と呼ばれる部分にしっかりと結びついて、じっと身を潜めていることも確認されました。そして、抗がん剤の投与が終わると、がん幹細胞は基底膜から離れ、眠りから覚めたように再び増殖を開始するのです。
この「眠り」と「目覚め」の切り替えを司っているのが、YAP(ヤップ)という細胞内シグナル分子であることも突き止められました。
がん幹細胞が休眠状態にあるときにはYAPが“オフ”になっており、再び活性化して増殖を始めると“オン”に切り替わるという仕組みです。
研究チームはさらに、YAPを抑えることでがんの再発を防げるかどうかを実験しました。マウスに抗がん剤(イリノテカン)を投与した後、YAPの働きを遺伝学的に抑えたり、TEAD阻害剤と呼ばれる特殊な薬を使ってYAPシグナルを止めたりしたところ、抗がん剤治療後のがんの増殖が大幅に抑えられました。
この成果は、将来的に「抗がん剤+YAP阻害」という新しい治療戦略の可能性を示しています。がん幹細胞を休眠状態から覚醒させないように制御することで、再発を防ぐ道が開けるかもしれません。

今回の研究は非常に有望な成果ですが、現時点ではまだ動物実験の段階です。今後、人への応用を目指すためには、臨床試験を通じて安全性や有効性を慎重に検証する必要があります。
それでも、この研究は「がん幹細胞がどのように抗がん剤を回避して生き延びるのか」を初めて明確に示したという点で、がん研究の歴史において重要な一歩です。
がんは単に「細胞が増える病気」ではなく、「生き延びるための戦略を持った細胞の集合体」でもあります。その中心にいるがん幹細胞をどう攻撃し、どう眠らせたままにできるか――それが今後のがん治療のカギとなるでしょう。
がん幹細胞は、がん組織の中で治療に強く、再発の原因となる「根源的な細胞」です。
慶應義塾大学の研究によって、その細胞が抗がん剤の間「眠り」に入り、治療後に「目覚めて再発する」という仕組みが明らかになりました。そして、そのスイッチ役を果たすのがYAPシグナルであることがわかりました。
この発見は、がん治療の「再発予防」という新しいステージへの道を拓くものです。今後、YAPを標的にした薬が実用化されれば、抗がん剤の効果を高め、がんを本当に「根治」させる可能性が見えてくるかもしれません。
がんと闘う最前線では、こうした研究が今も世界中で進んでいます。
再発を恐れず、安心して治療を受けられる未来の実現に向けて、私たち一人ひとりも最新の知見に関心を持ち続けていくことが大切です。