
先日、大きな話題となったニュースがありました。
「がんの疑いで膵臓を全摘出された男性が、退院後に死亡。遺族が病院を提訴した」というものです。
報道によると、この男性は昨年5月、県立病院で膵臓がんの疑いがあると診断され、翌月に膵臓を全摘出する手術を受けました。しかし、手術中および術後の検査の結果、膵臓にはがんなどの病変は見つからなかったといいます。その後、合併症によって体調が悪化したにもかかわらず退院し、同年11月に自宅で亡くなっているのを発見されたとのことです。
このような結果になってしまったことは、非常に痛ましく、残されたご家族のお気持ちは察するに余りあります。
一方で、このニュースを読んだ多くの方が、「どうして“がんの疑い”だけで膵臓を全摘するのか?」「結果的に病変がなかったのは、医療の誤りではないのか?」と感じたのではないでしょうか。
この記事では、外科医としての経験と、これまでに報告されている医学的知見をもとに、なぜ「がんの疑い」で手術を行う場合があるのかを丁寧に解説したいと思います。
なお、今回のニュースで報じられた医師の判断や病院の対応が妥当だったかどうかについては、十分な情報がないため、ここではコメントを控えます。
結論から申し上げると、「がんの疑いの段階で手術を行う」というケースは、実際に存在します。
そして、切除してみた結果「がんではなかった」ということも、決して珍しいことではありません。
なぜこのようなことが起こるのか。そこには、主に三つの理由があります。

がんの診断には、一般的に「画像検査」「血液検査」「病理検査(組織・細胞検査)」の三つが用いられます。
このうち、がんの確定診断には、細胞や組織を採取して顕微鏡で調べる「病理検査」が欠かせません。
しかし、膵臓という臓器は体の奥深くに位置しており、他の臓器と比べて検査が非常に難しいという特徴があります。
病変部位の細胞を採取するためには、「超音波内視鏡(EUS)」を用いて針を刺す方法や、「ERCP」という膵管から膵液を採取する方法がありますが、これらの検査ができないケースも少なくありません。
たとえば、患者さんの体の状態や、過去に受けた手術の影響で検査が困難な場合があるのです。
その結果、CTやMRIなどの画像だけをもとに「悪性の可能性が高い」と判断せざるを得ない状況が生じます。
つまり、病理検査ができない場合は、「がんの可能性がある」として手術に踏み切る判断がなされることがあるのです。
これは医療の限界でもあり、やむを得ない判断といえます。
実際に手術をしてみたら、膵がんではなく慢性膵炎や良性の嚢胞(のうほう)だった、ということもあります。
病理検査ができたとしても、診断が完全に正確とは限りません。
検査では病変のごく一部しか採取できないため、たまたま「がんのない部分」を採取してしまうこともあるのです。
たとえば、細胞診では「1=正常」「5=がん」といった段階評価が用いられますが、その中間である「4=がんが強く疑われる」という結果が出ることがあります。
このような「グレーゾーン」の診断結果が出た場合、主治医は患者さんの年齢、症状、画像所見などを総合的に判断して、手術に踏み切ることがあります。
一方で、がん細胞が検出されなかったとしても、「がんではない」と断言できないケースもあります。
病理検査には“偽陰性”という限界があるため、慎重に判断せざるを得ないのです。
「がんかもしれないが、すぐに手術せず様子を見る」という選択肢も確かにあります。
しかし、もしそれが本当にがんであった場合、経過観察の間に進行・転移してしまい、手術ができなくなる危険があります。
特に膵臓がんは、非常に進行が早く、発見時にはすでに手術不能の状態になっていることが多い、非常に悪性度の高いがんです。
ですから、わずかな疑いでも「早めに切除しておく」という判断がなされることがあります。
また、「診断目的の手術」という考え方もあります。
これは、他の検査では確定診断が得られない場合に、手術で病変を取り除いて顕微鏡で調べ、がんかどうかを最終的に確定させるためのものです。
つまり、膵臓の病変には「がんなのか、そうでないのか」が明確に区別できない“グレーゾーン”が存在します。
画像検査の結果、良性にも悪性にも見えるような微妙なケースでは、最終的に「切除して確認する」という選択が取られることがあるのです。
もちろん、膵臓の切除は非常に大きな手術であり、合併症や後遺症のリスクも高いものです。
したがって、手術に踏み切るかどうかは慎重に検討されるべきです。
その際に何よりも重要なのが、患者さん本人と医療側との「十分なコミュニケーション」です。

手術を行う際、医師には患者さんやご家族に対して、リスクや代替手段を含めた十分な説明を行う義務があります。
この説明を「インフォームドコンセント(説明と同意)」といいます。
さらに最近では、医師が提示した選択肢の中から、患者自身が納得して選ぶという「インフォームドチョイス(説明と選択)」の考え方も重視されています。
患者や家族は、わからないことや不安なことがあれば、遠慮せず質問し、納得したうえで治療方針を決めることが大切です。
医療の信頼関係は、こうした対話の積み重ねによって築かれていくものです。
今回のニュースのようなケースは、確かに衝撃的です。
しかし、医療現場では「がんの疑い」と「確定診断」の間に存在するグレーゾーンに直面することが少なくありません。
医師は「もし本当にがんだった場合に手遅れにしない」という使命感のもと、難しい判断を迫られています。
一方で、患者さんや家族には、手術のリスクや限界を正しく理解し、納得したうえで治療を受ける権利があります。
がん診療においては、科学的根拠に基づいた冷静な判断と、人としての丁寧なコミュニケーション――この両輪が何よりも重要です。
今回の出来事を通して、私たち一人ひとりが「医療との向き合い方」について改めて考えるきっかけになればと思います。