
近年、乳製品の摂取と乳がんとの関連について、メディアや書籍、インターネット上でさまざまな議論が交わされている。特に「牛乳は乳がんを進行させる」「乳製品は発症リスクを高める」といった主張は不安を生み、実際に牛乳や乳製品を避ける患者も少なくない。しかし、科学的知見は単純な因果関係を示すものではなく、多様な研究結果を背景に慎重に理解する必要がある。本稿では、乳がんの発症リスクおよび診断後の再発・死亡リスクにおける乳製品の影響について、現在得られている主な研究成果を整理する。
まず、乳製品摂取が乳がん発症の可能性にどのような影響を及ぼすかについて、多くの疫学研究が行われている。日本の乳がん診療ガイドラインでは、「乳製品の摂取は乳がん発症リスクを減少させるか」というクリニカルクエスチョンが提示されており、これに対するステートメントは「乳製品により乳がんの発症リスクが減少する可能性が示唆される」というものである。エビデンスの確実性は限定的ながらも、減少方向の傾向が認められるという位置づけである。
牛乳にはタンパク質に加え、カルシウムやビタミンDなどの重要な栄養素が含まれている。特にカルシウムとビタミンDは、細胞増殖やホルモン調節、免疫機能に関わることから、近年の研究では乳がん発症リスクを低減させる可能性が報告されている。こうした知見に基づき、乳製品の摂取が乳がん発症リスクを高める明確な証拠は乏しく、むしろ低下の方向に働く可能性があると考えられている。
一方で、すべての研究が一致しているわけではない。2020年にInternational Journal of Epidemiologyに掲載されたアメリカの前向き研究では、5万人以上の女性を対象に調査した結果、牛乳摂取量が最も多い群で乳がん発症リスクが約50%増加したと報告された。この研究は食生活が大きく異なるアメリカの集団を対象としており、牛乳の推奨摂取量も日本より多い点が考慮されるべきである。また、摂取量の多寡と脂肪含有量の違いがリスクに影響した可能性も指摘されている。
では、日本ではどうか。日本でも2万人以上の女性を対象とした前向き研究が実施されている。この研究では、乳製品を多く摂取する「乳製品パターン」の食習慣と乳がん発症リスクとの関連を検討したが、発症の増加も減少も認められず、「関連なし」という結論が得られた。食習慣や遺伝的背景の違いが影響している可能性が高く、地域差も無視できない。
以上を総合すると、乳製品摂取と乳がん発症リスクの関係は「大多数の研究で中立〜低下方向」というのが現時点での科学的な理解である。ただし、一部の研究では、高脂肪乳製品や大量の牛乳摂取がリスク増加と関連した可能性が示されているため、摂取量や脂肪含有量への配慮が望ましい。
乳がん患者にとって重要なのは、診断後の食習慣が治療成績にどのように影響するかという点である。一般には「乳製品は再発を促すのではないか」という懸念が広く共有されているが、その根拠とされる研究の多くは高脂肪乳製品の過剰摂取に限られている。
2013年にJournal of the National Cancer Instituteに報告された研究は、その代表例としてよく引用される。アメリカの早期乳がん患者1893人を対象とし、診断後の乳製品摂取と再発・死亡との関連を調べたところ、高脂肪乳製品を習慣的に摂取していた群で再発率の増加が認められ、乳がん死亡リスクも最大50%高まる傾向が示された。一方、低脂肪乳製品ではそのような増加は観察されなかった。この研究が「乳製品=乳がん再発」という誤解を生むきっかけとなったと考えられる。
しかし、後続研究の結果は必ずしも一致していない。2020年にBreast Cancer Research and Treatmentに報告されたヨーロッパでの研究(約2000人の乳がん患者を対象)では、牛乳を含む乳製品全体の摂取量と予後の間に関連は見られなかった。ただし、チーズを多く摂取する患者では再発率の上昇が示唆され、脂肪含有量や加工過程が影響している可能性が示されている。
多くの研究を概観すると、診断後の乳製品摂取が再発や死亡リスクを明確に増加させるという確たる証拠はなく、全体として「中立」もしくは「低脂肪乳製品では安全」とする傾向が強い。

乳製品と乳がんとの関係をめぐる議論は複雑で、しばしば矛盾した情報が流布されている。しかし、総合的にみれば、以下の点が現時点での科学的理解として妥当である。
乳製品はカルシウムやビタミンDなど、健康維持に重要な栄養素を含む食品である。特に日本では骨粗鬆症のリスクが高く、乳製品はその予防にも貢献する。したがって、乳がんに関する不安から全面的に避けるのではなく、低脂肪乳製品を中心に「適量を、バランスよく」摂取することが現実的である。
乳がんと乳製品の関係は研究途上であり、将来さらに精密な知見が得られる可能性がある。しかし、現時点では、合理的な範囲で乳製品を取り入れつつ、全体的に健康的な食習慣を維持することが最も望ましいといえるだろう。